コラム

column 26 「世界最後の桃源郷」その3
 耳を澄ますと、遠くで「ボン!」と大きな音がする。それが何の音なのか、さっぱりわからない。また、30分もすると「ドドーン!」と響き渡る音。
「また、一人殺されたな」
 宿のオヤジがそうつぶやいた。何の音かと尋ねると、山のどこかで氷河(アイスバーン)が崩れ、雪崩が起きたのだという。ひとつの雪崩が起きると、雪崩れた雪の重さに耐えられなくて連鎖的に雪崩が起きる。カラコルム山脈の7000m級の山々に囲まれたここフンザは、目の前にラカポシ峰7790m、ディラン峰7270m、背後にウルタル峰7388mがそびえ、まさに神々しい風景が広がっている。
 宿のオヤジが、ひとつの山を指差してこう言った。
「今日は機嫌が悪いらしい」
 長谷川恒男さんという日本人の登山家が、1991年10月にウルタル峰で、雪崩に巻き込まれて遭難している。ウルタル氷河を3時間ほど登ったところに、そこで亡くなった長谷川恒男さんのメモリアルプレートがある。
 なぜ山に登るのか? という問いに、かつてこう答えた登山家がいた。
『生きるもよし、死ぬもまたよし。大事に生きよう。何を恐れ、何を悲しみ、何を不満に思うことがあろうか』  その言葉は、強く私の心の中に刻み込まれている。
 私がここフンザにきて眼にしたものは、生きることに努力している人々の姿であった。360。周囲を山に囲まれ太陽と共に生活し、自然と共存しながら生きている人々。
 農作業をしているおじいちゃんをずっと眺めていると、私の視線に気づいたのかおじいちゃんは農作業の手を休め、スコップをかかげてウルタル峰を指差し、ニッコリ微笑んだ。
「今日も山はきれいだよ」
 午後になると、目をあけていられないほどの強風が吹き荒れた。だが、フンザの人々はそんなことはお構いなしに、農作業やら道端で世間話をしている。こんなことは日常茶飯事にあることなのだそうだ。だから、風が止むまでひたすら待つしかない。風の谷に、風と共に生きている姿。砂埃の舞う強風が通り過ぎるのを待ちながら、私は自分の心がからっぽになっていくような気がしていた。数週間前の日本での生活が思い出せない。この風が止んだら、きっとまた雪に被われたラカポシ峰、ディラン峰、ウルタル峰のカラコルム山脈が見えるはずだ。私は頭のなかで、何度もあの登山家の言葉を思い出していた。
『生きるもよし、死ぬもまたよし。大事に生きよう。何を恐れ、何を悲しみ、何を不満に思うことがあろうか』
 そして、風が止んで目の前に真っ青な青空が広がったとき、あともう少しこのままフンザにとどまっていたいと思った。(おわり)


柏崎招子(フリーライター)

編集部ひそひそ話  −映画−
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