自分の経験を全面に押し出す物の書き方は、作家としては如何なものか・・・という持論の私。無論、日本には私小説という特異な分野が発展してきた土壌があるので、受け容れる姿勢はあるだろうけれど、私は個人的生活を切り売りするのはゴメンである。大して面白くもないし。
だが、しかし。そりゃあ、色々なことを経験していた方がネタになる。特にエンターテインメントの小説家は。それを意識するに当たり、思考ベクトルが外に向く。ソトは、私の場合海外である。海外への旅は、何と言っても、自己鍛錬にはもってこいだからだ。物一つ買うにも、努力が必要になる。お金の種類、勘定の仕方すら変わるのだから。そしていちいち換算する、円にすると・・・高い? 安い? 汽車の切符が買えた。乗れた。未知の場所に辿り着くことが出来た! 食べ物はどこで買える? 今日はどこで寝るんだ・・・と、一事が万事新鮮、そして根本的な生活能力を問われるのだ。それは無論、人に頼らない旅の仕方をするからという前提の元に成り立つ経験である。誰も知る人間のいない、時には言葉すら通じない所に一人取り残されてみる。なかなかパワーの要ることである。色々困難にも対処せねばならないし、嫌な目にも遭う。そのうちそれらを乗り切る力がつく。(まあ、嫌なものは嫌だけど......。)その蓄積は馬鹿にならない。そうしているうちに、自分というフィルターが日本人であることなどどうでもよくなってしまう。そして小説の舞台が海外になる。登場人物が日本人でなくなる。
とか何とか言いながら、ニューヨークへテニスのUSオープンを見に行ったり、イタリア対スペインのサッカーの試合をバルセロナで見たり、世界中の美術館をへたなキュレーターより見ていたり、スカラ座やコンセルト・ヘボウで音楽を聴き、エストニアで10日もぶらぶらしたり、拳銃を一通り撃てるようになったり、セスナを操縦してみたり・・・あー、面白い、のだ。
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