コラム

column 40 「当世書生気質 其の三」
 同人誌に参加している人はたくさんいる。皆それぞれの目的がある。商業的な意味を無視して文筆活動というとそこには孤独に作品を書き続け、公開することなく消えていくことも入る。本来はこれこそが誰にもそして時間にも制約を受けずに書くことができる最良の執筆のようにも思う。しかしここに読者という欲望が入り込んでくる。せっかく書いたのだから誰かに読んでもらいたい。自分が様々な作家の著作を読んだように自分の作品も活字になって誰かに読まれればいい。そんな思いは誰にでもある。そこで同人誌というメディア(同時にコミュニティでもある)に注目する人も出てくるだろう。
 どの同人誌に参加するか決めるのは同時に読者を選ぶことでもある。なぜならそのグループに加わることは文章鍛錬を共通の目的にする集団に属することであって、機関誌を発行して開かれるであろう合評会では自分の作品がまな板の上にのる。同じ同人誌の人たちは制度上無理矢理でも自分の作品を読んでくれる。この、読む本人の趣味趣向を超越した、強制的な「読む」「読まれる」の制度はかなりの緊張を書く側に与える。一人で書くときに多少なりとも生まれてしまう自己満足を一刀両断してくれる。これは同人誌のいいところだと思う。インターネットで作品を発表していても通りすがりの閲覧者が感想をメールで寄せてくれることは極稀にもない。まるで太平洋の無人島で狼煙を上げ続けるようなものだ。この孤独感に耐えるのは辛い(ウェブ上の同人誌ならばメディアが紙から電子に変わるだけなので感想を言い合うコミュニティはあるだろうが)。
 重要なのは向上心ということだと思う。自分にそれがないと駄目だということもあるが、向上心がない同人誌は参加してしるだけ苦しい。文筆仲間と言うときの仲間という意識ばかりがクローズアップされ、お茶飲み、酒飲み同人の会になってしまっては自分の向上心が無視されてしまう。勿論お酒の席でいい話を聞くことができたという経験は私にも山とあるが、馴れ合いの、孤独感(寂寥感)解消セラピーになってしまっていては意味がない。この危険はウェブ上の同人誌(文学フォーラム)も同様である。もし自分の参加している同人誌にそういう性格があった時には勇気を持ってその場を去らなければならないし、新しい読者を獲得する方法を練らなければならない。
(つづく)


淘山竜子(作家/『雨滴の音』好評配信中)

編集部ひそひそ話  −同人誌−
 高校時代、私は雑誌の表紙とカットを書いていた。児童文学者として倉持正夫先生が主宰していた『じゃんけんぽん』という同人誌だった。茨城県内の書店で流通していた本格的な雑誌である。ギャラは数千円分の図書券。
 先生はもともと小学校の図工の先生をしていて、何故か私の絵を気に入ってくれていた。先生は勝手に私の絵を応募し県展、市展と入賞を繰り返した。
 同人誌を作り最初に書いたものが、児童ものだったのも先生に読んでもらいたかったからである。その時、先生は厳しく批評してくれた。
 今思うと先生の自宅にはよく通った。病院の裏にある長い坂道。その坂道を自転車に乗りながら必死で昇った。
 生意気な高校生の私に付き合ってくれた先生に感謝している。

渡辺


 ご多分にもれず、私も中学・高校時代、同人誌に燃えていた。私の場合は小説である。だから少し気取っていえば文芸誌を目指していたのである。
 しかしながら、周りの友人は漫画家志望が多かった。みんな絵がうまい。だから文芸誌のようなものは一冊作ったけれど自己満足で終わり、それ以降は漫画同人誌にちょっとだけ小説を載せてもらう、という形になった。それらの同人誌のうち、お台場ビックサイトのイベントで配られたのは一冊だけだったように思う。つまり私の作品が不特定の人々に読まれたのは、一作品だけ。
 その後、高校を卒業すると同時に友達と会う機会も減り、いつの間にか同人誌への想いも消えていった。仲間と作った同人誌はいまだ私の宝物である。

みらい

戻るBack number



2000-2002 copyright(C) bungeisha co.ltd.
produced by NETWAVE Co. Ltd.