こんにちは。今回でこのコラムも終わりです。まだまだ文章修行の足りない私の、わかりにくい言い回しなど、読んで下さった方にはご迷惑もおかけしたと思います。さて、今日のテーマは、小説の中の語り手の視点と人称についてです。
小説を書く人なら、一度ならず考えたことがあるのではないでしょうか? 例えばこういうことです。私小説なら、一人称で、語り手の視点と主人公の視点が同一です。谷崎潤一郎の『卍』や大江健三郎の諸作品がそうですよね。ですから読者は主人公に見えるものしか見えないのです。主人公が橋に立って川面を眺める。その時、橋の通行人の姿を見ることができない。別の作中人物が登場するにも欄干に肘をついている主人公が肩を叩かれるまで別の誰かがそこにいるということがわからない。しかし、これが三人称で書かれた小説なら、もう一つの視点を挿入させることができます。「その時、川面を眺める後ろ姿を見付けて近づいてきたのは竜子だった」とかいう文章が書けるんです。読者は川面の様子もわかるし、主人公の後ろ姿も見ることができる。しかし、ここにはもう一つ考えなければならないことがあって、もし、この語り手が主人公と近い位置にいるのだったら話が違ってくるのです。
例文1:詠子がバイトから帰ってくると、すでに十一時近かった。玄関の明かりは消え、鍵がかかっていた。鞄のどこかにいれたはずの家の鍵を暗闇で捜しているうちに、屋内から母親と父親の口論の声が聞こえてきた。
ここでは主人公の詠子の肩の上に語り手の視点があるのがわかります。「母親」、「父親」があるからです。この二人は母親、父親である前に個人名があり、家を離れれば固有名詞で呼ばれるはずです。でもここでは詠子にとってこの二人が何者なのかということに興味が集中しています。そして登場する三人の関係を一発で説明することに成功しています。しかし、一度この視点を選択してしまうと母親は母親としてでしか、父親は父親としてでしか登場できなくなります。
例文2:部屋に入ってきた詠子の姿を見て、隆敏はそれまで張り上げていた声を落とした。そして、美智恵の顔を見ないまま、寝室に入った。二人は田舎で暮らす母親のことが話題にのぼると必ず喧嘩するようになっていた。
例文3:部屋に入ってきた詠子の姿を見て、父親はそれまで張り上げていた声を落とした。そして、母親の顔を見ないまま、寝室に入った。二人は田舎で暮らす母親のことが話題にのぼると必ず喧嘩するようになっていた。
例文2と3では、語り手の視点がどこにあるのか明確に違っているのがわかります。2では両親の具体的な名前を使っています。ですから例文3で、視点が詠子にあるまま祖母のことを「母親」というのに無理が生じます。それに例文2のほうが父親=隆敏の個人としての存在感があります。
例文4:詠子はこういう場面が堪らなく嫌いだった。何について二人が争っているにせよ、それは全部自分が原因のように思えた。子どもじみた発想だとはわかっていても、父親と母親には睦まじく向き合っていてほしかった。そんな詠子の気持ちを無視するように父親は寝室のドアを、刺々しくバタンと閉めた。
こうなるともう、読者はこの両親を詠子の立場から眺めることになってしまいます。閉めたドアの音が大きくなってしまったのは故意ではないという可能性を考えられません。真実は決して書かれていないのです。詠子がどう感じたかが問題になっています。
このように、人称や語り手の視点というのは小説の大きな要素です。魅力的に描かれた作中人物が何人か登場するのが面白い小説だとします。でも、対人恐怖症になった主人公の一人称小説、もしくは主人公の肩に語り手が乗っている小説ならば、脇役の人々を魅力的に描くことは困難です。しかし、語り手が神の視点を保っているのならそれが可能になるのです。
今流通している小説の多くには、一人の主人公に語り手が肩入れしすぎる傾向があるのではないかと思っています。「どう書くのかではない。何を書くのかが大事だ」とよく言われます。私もその通りだと思います。そしてこの人称と語り手の視点の問題は、「何を書くのか」という範疇に入ることだと思います。
(おわり)
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