日常に倦むと旅に出たくなる。その情動は31になった今でも変わらない。旅とは空間的な移動を指すのではなく、心象風景の変遷を時間的に蓄積する行為だと思う。
例えば歌舞伎町界隈の路地でふと嗅ぐことのできるアジアの濃厚な香り。その時過去の心象風景が目蓋の裏側で表象される。96年のホーチミン。気だるい南国の風とともにホテルのバルコニーから、サイゴンと呼ばれた街のネオンを眺める自分がいる。夜空に響き渡るバイクの音と何処からと流れてくるクラブのサウンド。天蓋にはゆっくりと旋回するファンが蚊帳のコットンネットを揺らしている。ベットサイドに置かれたロバート・キャパの書籍とくたびれたバックパック。すべてが鮮やかに私の中枢神経をくすぐる。 あるいはミルクコーヒーのような茶色い大河を見つめながら、これがメコンだと誰かが呟いた一言。サイゴンから乗合バスに揺られて辿り着いた大きな景色。船上に運ばれるバスはマルグリット・デュラスの「L`Aman」の一節を思い出させる。車内で仲良くなったベトナムの女性が太陽で光る水面を目で追っていく。深い河なのだ。やがて日が暮れて僅かな採光は月のみとなり、メコンを漕ぐ櫓の音が心に沁みてくる。 そんな心象風景を時々私は町の路地で拾い上げる。それこそ私の旅。旅はいつでも私の足元に転がっている。石ころのように。 |