コンピューターという言葉は既に日本語として定着し、電子計算機という訳語と併記されることも少なくなっているようです。テレビがテレビジョンと呼ばれることが少なくなったのと似たようなことでしょうか。ものごとの初めには、始めた人たちの非凡な着想がありました。コンピューターを創った人たちを数え上げると、多数の名前を記録することになります。基本的なアイディアを提起したビッグネームだけで100をはるかに越えてしまいます。主要なアプリケーション開発に関わった人たちまで含めると、どれほどの数になるか見当がつかないほどです。それぞれの人について書籍が刊行されている場合があり、一人一人細部に亘って語るときりが無くなります。ここでは大まかな流れを、ご紹介するだけに留めましょう。
コンピューターの基礎を築いた人たちとして次の名前を記憶する必要があるでしょう。
先ず、「コンピューターの父」チャールズ・バベッジ (1791〜1871)。彼がコンピューターを創ろうとしたのは19世紀初頭、日本ではまだ江戸時代のことでした。その名は長く忘れられていたのですが、1991年ロンドン科学博物館において、残されていた彼の設計図をもとに幻のコンピューターが復元されました。いくつか図面上の相違はありましたが、バベッジのコンピューターは正しく動作しました。コンピューターの概念を発想して設計した最初の人という評価がこれにより固まっています。
次に、今から30年ほど前、アメリカで誰がコンピューターを創ったかという論争の一方の当事者となったジョン・アタナソフ(1903〜1995)がいます。この争いは裁判に持ち込まれ、その結果それまで「ENIAC特許」と呼ばれていたものは効力を失い、コンピューターの最初の発明者としてジョン・アタナソフが認められることになったのでした。アタナソフが助手のクリフォード・ベリーと一緒に作ったそのマシンはアタナソフ・ベリー・コンピューター(ABCマシン) と呼ばれています。今の基準から見ると、コンピューターというよりは電子式数値解析機という感じだったようですが、少なくともデジタル2進数演算をこなす機械だったそうです。
アラン・チューリング(1912〜1954)は、1936年の「計算可能数についての決定問題への応用」という論文のなかで、無限に長いテープとそのテープに情報を読み書きするヘッドとを持った、簡単な基本操作によって動く機械を想定し、その機械の有限回の操作によって数学の形式体系と等しい働きをさせることができることを証明しました。この論文ではまた、機械を停止させることができない問題(解を導くことができない数学的命題)が存在し得ることと、その事実を前もって判別することができないことも指摘しました(停止定理)。これは有名なゲーデルの不完全性定理の別の表現になっているわけで、そのことをゲーデル自身が指摘しています。後にチューリング・マシンと呼ばれるようになったこの有名な仮想機械は、論理的な計算を機械でシミュレートすることができることを示したことによって、電子計算機の理論的な基礎付けを行ったものと評価されています。
クロード・シャノン(1916〜2001)は計算することだけを目的にして使われていた計算機に、ブール代数の考えを導入することで、それ以外の目的にもコンピューターを活用することができることを示しました。1973年に発表した「リレーとスイッチ回路の記号論的解析」という論文は、計算機にブール代数を初めて適用したものでした。スイッチの開閉と記号論理における真偽がきれいに対応し、スイッチの直列接続はANDに、並列接続はORに対応する、ということで、単に計算だけでなくあらゆる論理演算をコンピューターで行うことが可能であることを示しました。これによって、コンピューターは飛躍的な進化を遂げることになります。この論文がその翌年公刊されるや、強力な影響を及ぼし、それ以前、10進法によって設計されていた計算機の回路は、以後2進法に基づいて設計されるように変わりました。 電子計算機が計算だけに使えるだけでなく、その他のいろいろな用途に使えるのだということを世界ではじめて指摘したシャノンのこの発見と研究がなければ、もしかしたらコンピューターはいまだに「電子ソロバン」の状態から脱せずにいたかもしれません。今日の高度情報化社会も、インターネットやマルチメディア技術の発展も、シャノンの偉大な功績に拠るところ大なのです。
ノイマン型コンピューターの発案者ジョン・フォン・ノイマン(1903〜1957)もまた「コンピューターの父」の名で呼ばれることがあります。友人宛ての手紙で、自身を「純粋性を失った人間」と称した彼は、数学だけでなく、物理学や経済学、気象学、生物学、中でも特にコンピューター科学に偉大な足跡を残しました。フォン・ノイマンはまさに万能の科学者という名に相応しい人物でした。
数学者として人生をスタートした彼は、20代の内に数多くの論文を発表し、その世界では名を知られる存在になっていましたが、第二次世界大戦が勃発したことから、合衆国政府のコンサルタントのような立場で軍事研究に積極的に参加することとなりました。弾道計算や原爆の爆発を制御する流体力学の計算など高速の計算機の必要性が高まっており、ノイマンの心中で計算機への興味は増大していきました。1944年あるきっかけからペンシルバニア大学ムーア校の計算機プロジェクトの存在を知り、以後アドバイザーとして彼はそのプロジェクトに参画するようになりました。米陸軍がスポンサーになっているこのプロジェクトは、ジョン・モークリーがアイデアを出し、プレスパー・エッカートが技術面の中心になって推進していました。1946年この計算機はENIACとして発表されました。フォン・ノイマンはENIACに続くEDVAC計画では設計段階から参加し、1945年「EDVACに関する報告書第一稿」で、プログラム内蔵方式コンピューターの情報処理に関して初めて説明しました。1946年バークス/ゴールドスタインとの連名で作られた「電子計算機の論理設計の予備的討論」報告書ではコンピューター設計の基本について明らかに説明しており、以後この報告書が教科書のように使われて、今日のコンピューター設計の基本・ノイマン型アーキテクチャーとして知られるようになったのです。
ジョン・モークリー(1907〜1980)とジョン・プレスパー・エッカート(1919〜1995)は、前述した世界初の電子式汎用計算機ENIACプロジェクトが終わった1946年後もビジネス界で協力を続けました。1946年、小さな会社でスタートし、翌年エッカート・モークリー・コンピューティング・カンパニーという株式会社にしましたが資金繰りが難しく、1950年レミントン・ランド社に買収されてしまいました。しかし、その1年後の1951年、その後有名になったUNIVAC-Iが国勢調査局に納入されたのでした。
UNIVAC-Iの名が一躍世間に知られることになったのは、1952年に実施されたアイゼンハワー対スティーブンソンの大統領選挙戦においてでした。マスコミ評は五分五分の接戦でしたが、開票待ちの間にコンピューターに選挙の予想をやらせてみようということになり、UNIVAC-Iが使われたのです。マスコミはほんの余興の扱いでしたが、コンピューター技術者たちは真剣に過去の大統領選の傾向を分析し、膨大な量のデータをインプットして、かなり精度の高いシミュレーションを行いました。その結果はアイゼンハワーの圧勝を示したのですが、世評とあまりにも食い違うのを気にして、プログラムに細工をしそれに近づけるようにしたようなこともあったそうです。 結果としてはUNIVAC-Iの最初の予想が当たっていたわけで、この後IBMの時代がくるまでの数年間、UNIVACの名前がコンピューターの代名詞として使われた時期があったそうです。
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