うちの実家は柴犬のブリーダーをしている。
元々、家族全員犬好きだった。最初は拾ってきた雑種の子犬を飼うぐらいだった。
悲しいことに車通りの激しい国道沿いに家があり、目を離した隙に、よく事故に会って死んだ。
それから血統書のついた由緒正しい柴犬をお袋と弟が買ってきて飼うようになる。檻を作り、絶対死なせないよう気を配って……。
その最初の犬が「ジュン」だった。丸々とした黒い目が愛らしいおとなしい雌犬で15才の老衰で死ぬまで子、孫、ひ孫と育てていった。
とにかくジュンは鳴かなかった。
唯一、ジュンが「ウー」と唸った夜。「ジュンが鳴いた!」と家族が騒いだ。案の定、隣の飲料水問屋にビール泥棒が入っていた。
このジュンから系統がつながり、一時期20匹近くまで増えた時もあった。今では8匹くらいかな。朝夕の散歩、エサやり、小屋の掃除がとにかく大変。1日3時間くらいはかかる。
「もう少し犬減らして楽したらどうなん?」
と言う俺にお袋は、
「好きでやっとんやけ、ほっといて!」
これがお袋の唯一の趣味なのだ。
頭の良い、飼い主の気持ちを察する犬は鳴かないと云う。色々、狼、犬について調べた末、本来、犬は「ワンワン」と鳴かないことがわかった。
現在、すべての「カイイヌ」は狼から進化したとする学説が有力である。セントバーナードからチワワまで狼から品種改良されたものなのだ。
近代、野生狼を飼い慣らした人間がいる。また逆に犬が野生化する場合もある。その結果、「飼い狼」は「ワンワン」と鳴くようになり、「野生犬」は鳴かないようになるらしい。
そう、狼、犬が「ワンワン」と鳴くのは人間とのコミュニケーションを試みようとする彼らの努力の表れなのだ。
狼同士、犬同士のコミュニケーション手段は主に尻尾振り、耳下げ、目細め、牙見せ等のボディランゲージが主である。それに臭い、遠吠え等が続く。だから関係がうまくいっている人間と犬では同じようにボディランゲージだけでコミュニケーションができている場合が多い。散歩中、前を歩く犬が、チラチラと飼い主を見返すのはこのためだ。
「ワンワン」と犬が鳴くのは、ボディランゲージでの人間とのコミュニケーションがうまくいっていない証拠である。要するに相手に言いたいことがうまく言えなくて地団駄踏んでいるようなものだ。
狼が獲物を襲う時、何十頭もの群が一言も漏らさず静かに任務を遂行すると聞く。それはこんな感じ。
薄暗い森の中を疾駆する幾つもの黒い影。後に残るのは新雪に穿かれたいくつもの足跡だけ。
聞こえるものと言えば複数の息づかいのみ。
唯ひとつの太く大きい息が先頭を走り、それを覆いつくさんと十重二十重の息が追う。
多くの雌を惹きつけ、他の雄たちを怖じ気づかせていた彼の大樹のような角はこの忌々しい影どもには利かない。
なんて孤独だ。
周りを走る影どもに恋い焦がれるほど愛されているのに。もっとも影どもは彼を愛しているのではなく、彼の肉を愛しているのだが。 一匹が彼の尻を噛む。後ろ足で蹴り上げるがバランスが崩れ、スピードが落ち、影どもに回り込まれる。それは死んでも認めたくない最悪の報い。
次々と無言の影が彼のビロードの体表に牙を喰い込ませる。そして「もっと深く」と首を振る。
「ブフウノブフウノ」と彼の両の鼻腔から空中に「ハ」の字を描いて白い息が吹き出す。重りのようにぶら下がった影どもの塞がれた口からも湯気のように白い息がこぼれている。
噛みつく隙間のない影は高揚の舞踏を踊っているかのように周りを巡る。
やがてヘラジカは力尽き倒れた。その瞬間、狩猟は狼たちの何週間ぶりかの宴に変わる。
眠りにつく前、目を細め、お互いの口に付いた血を舐め合う狼たち。やっと群に平穏が戻ってきた。
だが、次にいつ獲物が捕れるのか……。
この北の森が生む闇は約束を守る闇なのか破る闇なのか……それを狼たちは考えたこともない。
次回は最終回「女性」。うー、なんか気が重い話題だなあ。
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