こんにちは、淘山竜子です。今回の話題は「結婚」についてです。
以前に参加していたゼミで、夫婦別姓を取り扱うものがありました。そのゼミでよく参加者の口に上った言葉が「事実婚」と「法律婚」という言葉です。法律婚というのは男女が役所などの公的機関に婚姻届を出して籍を同じにすることをいいます。現在の民法では、苗字は夫婦になる男女のどちらか一方の姓で統一しなければならないとなっていますので(通称などの例外もありますが、法律上は統一)、法律婚の夫婦は姓が同じです。一般的にはみんなこっちだと思います。では事実婚とは何かというと、公的機関への届け出をせずに夫婦である場合です。これは一緒に住んでいる場合が多い。一般的には同棲と呼ばれるかもしれません。なぜこの同棲を事実婚と呼ぶようになったかというと、同棲という言葉の持っている、或いは私生児という言葉の持っているマイナスイメージを背負わないようにするためだ、と言われています。夫婦別姓を主張して籍を入れないだけなのに、それを世間から同棲だ、と言われるのは何か納得いかないというのはわかります。
法律婚の夫婦でも仕事の都合で一緒に暮らしていない場合があるのですから、事実婚の夫婦でも転勤などで夫婦が一緒に暮らせないことも出てくるでしょう。そうすると、これはただの遠距離恋愛のカップルと状況が全く同じになってしまいます。結婚が法律に縛られなくなる動きが出ている今、夫婦と恋人同士の差って何なのか疑問が湧いてきます。
たぶんそれは、本人同士が自分たちのことをどう思っているかというよりも、周囲がその2人を何と判断するかという問題なのだと思います。この前テレビのドキュメンタリーで、結婚式の披露宴から二次会の会場に行くリムジンバスの新婚ホヤホヤ夫婦を撮影しているものがありました。夫婦は「お父さん泣いてたね」とか「○○先輩のギャグ面白くなかったね」とかいう会話の後に、こんな会話をしました。
旦那:それで、籍は入れないの?
嫁:うん。籍はまだ入れないの。
旦那:何で?
嫁:だって(グローブの下の指輪の感触を確かめながら)何があるかわからないでしょう。籍は1回目の結婚記念日に入れるって決めてるの。
2人は盛大な披露宴をやったわけで(しかも二次会までやるのだから)世間の皆さんに「私たちは夫婦です」と宣言したのですけど、実際の信頼関係はちょっと微妙です。このお嫁さんの場合は入籍にこだわっているようです。
こうして見ると、結婚の二面性が見えてきます。ひとつは社会性です。もともと冠婚葬と言うように結婚は宗教儀礼のひとつとして、その共同体が主催し、社会的にその2人をどう扱うかという問題でした。だから近代以前は親戚や親が縁談の話を決めていたのです。
結婚のもうひとつの側面は、本人の恋愛感情の高まり、つまり個人の内面性です。現在の結婚の多様化は個人の共同体からの独立が顕著になってきている証拠だと思います。本人同士の考え方に重点が置かれていると言っていいでしょう。恋人同士というよりも、もっと特定の誰かと親密になりたいという願望です。
ですが家族は結婚の上に作りあげられるものですから、結婚の持っている社会性も背負い込みます。だから今までの、共同体の制度内での結婚を基盤にして作られた家族は、お互い同士への愛情などが揺れ動いても、制度がその外側をがっちり固め、また本人の心の中にも社会性という壁があってそれが結婚および家族を守ってきたと言えると思います。しかし、結婚が個人だけのものになりつつある現在では、それを守るものが脆弱になって、早い話が離婚も多い。しかし、本当に結婚を個人だけのものにしていいのだろうかと私は疑問に思います。それほど「個人」って私たちの中、或いは私たちの社会の中にきちんと存在するものでしょうか? 情報化社会と言われます。「私らしく生きたい」とかっていうコピーが氾濫しています。でも実際そういう個別性を謳歌する人の生活を覗いてみると、なんだか何かの焼き直しみたいだなって感じることもあると思います。一人の人物から既成のキャラクターを削ぎ落としていって、最後に残るものって何なのでしょうか? それが圧倒的に不安定だから自己中心的な思考が出てくるのではないでしょうか。家庭の崩壊ってここらへんにその原因が潜んでいるのだと私は目をつけています。
つづく
淘山竜子さんが中心となった雑誌『孤帆』の第3号が発行されました。大きな出版社から降りてくる情報のみではなく、横に横に広がって新しい創作の可能性を広げたい。『孤帆』はそんな文芸同人誌です。 創刊号から三号まで販売しています(定価500円)。
詳しくはホームページで。 http://home.catv.ne.jp/rr/s-field/index.html
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