ラモーンズのトリビュート・アルバムには、ノーベル平和賞候補のU2のボノから、トム・ウェイツまで入っていたのには驚かないけれど、どうして、世間はジョーイ・ラモーンの遺作を取り上げねえのか。判らねえんだろうなぁ。よって、ここに記しておく。
アメリカでの正式なリリースの日付は2002年2月19日。あれから1年以上も経った。コピー曲集「Acid Eaters」を除けば、この10年あまりで作られたRamones名義の作品より、ずっとポップで素晴らしい。ジョーイの死後、本筋の60年代アメリカン・ポップスを体得して、伝統を引き継ぐのは、Green DayのArmstrong船長くらいかな。
1曲目は「What A Wonderful World」。そうなの、Armstrongはアームストロングでも、こっちはあのサッチモだ。ところがイントロで2回、ニヤリとさせて呉れますのよ。3曲目、「Mr. Punchy」は明らかにThe Whoのキース・ムーンに捧げてらぁ。バコン!、ドカスカ!、ガッシャンと、まるで“ムーン・ザ・ルーン”を彷彿とさせるドラムを叩くのはマーキー・ラモーンその人。ピート・タウンゼンドがリッケンバッカーをかき鳴らすお姿をプリントしたTシャツを、ジョーイが嬉しそうに着ているライナーの写真は、何とも愛らしい。
ジョーイが最初に選んだ楽器はドラム。そう、少年時代のジョーイのヒーローはキース・ムーンであったのだ。そんなロンドンの黴臭さもちゃんと入ってます。皮肉屋のCaptain Sensibleもロンドンから飛んできて、バッキング・ヴォーカルで参加している。不思議なことに、ミキシングで、チャーリー・ワッツのジャズ・バンドがクレジットされている。ともあれ、歌詞を読めば、医者から告知され、ジョーイは全てを知っていたことが判る。
――この世界一長身のパンク・ロッカーは、1997年の暮れ、偶然、俺と話をする機会があり、自分の家族と一緒に写真を撮らせて呉れた。ジョーイの実父、ノエル・ハイマンは、カメラを自ら手に、我が家全員とジョーイとの写真を撮ってくれた。ジョーイとファンの写真は数多いが、息子とそのファンを父親が撮った写真は世界中にあれ一枚ではないかな。
JFK国際空港にほど近い、クィーンズはフォレスト・ヒルに生まれ育ったジョーイは、両親が幼い時に離婚したので、父親のノエル・ハイマンとはずっと別居して育ったのだ。あの、50年代から60年代のクィーンズで育ったと聞くだけで、俺は彼らのタフさを想う。ジョーイは孤独な少年時代を送ったはずだ。俺たちが会ったのは、ノエルの住むイースト・チェスターに近いライブ・ハウスだった。あの時期、ジョーイはラモーンズを解散して、ロネッツのロニー・スペクターをプロモートし、キッズのために、クリスマス・ショーをプロデュースしていたのだった。こういう優しさが、この人の人気が絶えない理由だろう。
「今日は、俺のオヤジも来てんだぜ!、ほら、あすこに俺のオヤジがいるぜ」
ジョーイがステージから叫ぶと、スポット・ライトに照らされて、鳥打帽を浅く被ったノエルが恥ずかしそうにはにかんでいた――ジョーイは、もう、ノエルを許していたのか。
「君も彼のファンなのかい?」
ノエルは俺の耳元で嬉しそうに囁いたっけ。
――NYパンクの親分衆が集まって作った共作、「Chinese Rocks」のクレジットを見れば、(Thunders, Nolan, Ramone, Hell)とある。順に死んだ年は91年、92年、そしてジョーイの2001年。残るは作家になったリチャード・ヘルだけか。順番とはいえ、寂しい。
今も、ジョーイの周囲にあった穏やかさを想い出すとグッとくる。ジョーイの訃報には、家族に見守られて亡くなったとあったから、逆縁になったとはいえど、実の両親が枕頭に詰めた中で息絶えたのか。そうであって欲しい――この元不良少年は、何しろ、「What A Wonderful World」と歌って死んでいったのだから。
つづく
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