さて「ゆびは物語る」と題して私が世界平和と環境問題について熱く語り倒した熱血エッセイも残すところあと2回となりました。環境問題なんか一度も触れてない、という突っ込みもあろうかと思いますが、最後までお付き合いしていただければ幸いです。さぁ、もうすぐだよサム。
さて、今回はつい最近もいわゆる「田中○希子の長女の○○について記事にした週刊○春問題」で話題になった「表現の自由」「報道の自由」「プライバシー」などについてひっくるめてお話してみましょう。
いわゆる芸術家と言われる方や、創作者、表現者と言われる方々はよく「表現の自由」という言葉を使いますし、それを自分の盾にすることがあります。これは大体、その表現方法についていわゆる「司法の方々」や「世論」といった人々がその表現方法について苦言を呈した時に、「表現者」が口にする言葉なのですが、この「自由」という言葉が厄介なのではないでしょうか?自由の意味を辞書で調べますと「自由」(1)〔freedom; liberty〕他からの強制・拘束・支配などを受けないで、自らの意志や本性に従っている・こと(さま)。 (ア)哲学的な意味では、自らを自律的に統御し、内なる必然から自発的に行為すること。外的自然からの自由、内的自然(理性や意志以外の要因)からの自由、他人による強制からの自由に分かれる。意志の自由とほぼ同義。(イ)社会学的な意味では、社会集団が個人の自律的な判断・決定能力を発展させる構造的条件を備えていること。基本的人権のほか価値・規範体系の整備なども含む。(ウ)政治的・歴史的には、時代によって異なる内容をもつ。(2)物事が自分の思うままになるさま。(3)わがまま。気まま。
なんかこれだけ読んで見ただけでも言葉の意味の範囲が物凄く広いということがわかります。
自由という言葉を使ってちょっとその迷宮にはまり込む事例を考えてみました。
先生 「それではその自由帖に自分の好きなものを書いて見ましょう」
生徒 「書けた。やっぱり僕はこれが好きだな。男だから」
先生 「コラ○○君。そんなものを書いてはいけませんよ」
生徒 「えー、だって先生、好きなものを自由に書きなさいって言ったじゃん?」
先生 「だからと言って○○を書いていいってものじゃないのよ」
生徒 「だけど僕の好きなのは○○なんだから仕方ないじゃん。僕の自由でしょう」
さて、この場合○○が何なのかを想像するのは皆様の自由ですが、表現するものに自由というものがつくとこのように本当に厄介なものになってしまうのです。
何しろ建前上は「他人の制限」を受けないはずなのですから。
芸術でも表現でも報道でもその自由加減の線引きがないので(というかそれが自由なはずだから)いろんな問題が出てくる訳です。駅前で全裸の人が立っていたらすぐに「猥褻物陳列罪」で逮捕されますが、ダビデ像なら大丈夫です。田中○希子の長女だと問題で田中○希子の夫の浮気だったら問題にはならなかったのでは?「石に泳ぐ魚」は特定できる他人の事を書いたからいけなかったが、人面魚だったら問題はなかった?考えれば考えるほど深みに嵌っていきます。
だからといってあまり制限を受けると面白いものは出来なくなってしまいますよね。
例えば「200字以内で世界平和をテロ組織の視線で捕らえたオチのあるショートショートを作りなさい」と課題を出されたとしたら、もうこの規制を自爆テロでも起こして破壊しない限り表現できない気がします。それほど制限されるということは表現方法に規制がかかることなのですから「表現者」からすると「たまったもんじゃない」となってしまうのでしょうね。
自分自身、表現の自由にぶち当たった経験があります。それはショートショート大賞を受賞した時に起きました。
「おめでとうございます。ショートショート大賞を受賞しましたのでさらしゆびおさんの作品を電子出版させていただきます。何かもうアイデアはおありですか?」
私はもう自分自身を読者に伝える術を考えていました。
「ありがとうございます。もう、アイデアはあります。題は『さらしちゃうわ。私』というヘアヌード写真集です」
「いや、それはちょっと……」
すぐにこの企画は没になりました。
うーん、心も体も準備は出来ていたんだけどなぁ……。
表現方法が悪かったのかなぁ……(このお話はフィクションです)。
次回はいよいよ最終回、「感動のエンディング」について考えてみたいと思います。
つづく
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