1971年、著者の中山達郎氏は、ナイジェリアの首都にあるシティーホールで、日本を紹介する催しに参加していた。特に「柔道」のデモンストレーションは人気を博しており、柔道の心得があった著者は護身術の演技を披露したのである。その直後に彼は日本国大使から、現地のある老人とその息子を紹介された。老人はナイジェリア人のチャンバン氏、そして子供の名は「ヒデヨ」だという。著者は驚きを隠せなかった。チャンバン氏は、かつて野口英世の助手を務めた人物であり、息子をヒデヨと名付けたのは、恩師に対する畏敬の表れに相違ない。チャンバン氏は、黄熱病の実験に使った数百匹の猿の管理を任されるとともに、野口英世の世話係として、研究に打ち込む彼の姿を間近で見てきた人間だった。
本書は、チャンバン氏への直接の取材ならびにガーナ人の助手だったアレクサンダー・ウィリアムス氏の息子フランク氏への取材を基に構成された、物語形式のセミドキュメンタリーである。
1918年、南米エクアドル、メキシコ、ペルー、ブラジルと黄熱病が広がる最中、ロックフェラー財団熱帯医学研究所本部は野口英世をそれらの地域に派遣した。英世自身、これまでの研究活動にどこか物足りなさを感じており、何か新しいものにチャレンジしたいと考えていたため、黄熱病の発生原因究明とその予防に全力を投じることに意気を感じていた。
英世は赴任後数日にして早くも病原菌を発見し、これを基に大量の「野口ワクチン」を製造、黄熱病予防に尽力した。しかし後日、学会で野口ワクチンの有効性を否定する説も出され始めた。また当時は「黄熱病は皮膚感染しない」と信じられていたが、その説がひっくり返される実例も生じていた。まだ顕微鏡の精度も現在には及ばず、何らかのウイルスや細菌を見落とす可能性も高かった時代である。何が正しくて何が正しくないのかを的確に判断するのは非常に難しい状況にあった。英世は名声を博したかと思えば、その功績を否定される事実を目の前に突きつけられ、またゼロからのスタートを余儀なくされる、という波乱万丈の研究生活を送った。
英世は、いったん「これぞ」と決めた人間とは素早く友人関係を築き上げてしまう天性の能力を有していた。だが逆にその個性の強さが、研究の遂行にマイナスに働くこともあったようだ。例えば、彼はどんな研究を進めるにしても、同じ分野に携わる人間に意見を乞うこともなく、先駆者のデータ、論文を最初から参考にすることはなかった。常に自分の方式で事を進め、他人の残した研究成果は、自分で結果を出してから見ればいい、という考えだった。
後に黄熱病予防の「17Dワクチン」(現在も世界で使われている)を開発したマックス・タイラーは、英世が使用していた実験室に足を踏み入れた際、その実験テーブル上の無秩序ぶりと乱雑さを目の当たりにして、「これが世界のノグチの仕事場だったのか」と呆然とし、一瞬自分の目を疑ったそうだ。著者は「英世が自分と同じ研究をする人間に対し、もっと寛容さ、謙虚さがあり、タイラーのような有能な研究者を呼び寄せ、共同研究をしていたなら、『17Dワクチン』より早い時期に、真に有効な『野口ワクチン』の開発に成功していたのではないか」と述べている。
英世にはそんな頑固で猪突猛進的な横顔もあったようだが、研究者としての資質を感じさせる、納得のエピソードも本書では紹介されている。彼は研究室においては寝る間も惜しんで仕事に没頭するが、それ以外の場では、滞在する国の言葉をマスターすることを常に意識していたそうだ。西アフリカへの渡航時点で、英世は既に英語、ドイツ語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、中国語、ロシア語をマスターしていた。できる限り現地の言葉でコミュニケーションをとり、身近で働く人々との融和を図りたいというのが彼の考えだった。現地人は自分達の言葉を流暢にあやつる日本の博士に親しみを感じ、英世はあらゆる階級の人々から違和感を持たれずにすごすことができたという。これが英世の目指した研究環境の下地であり、そのおかげで彼はいつも自由に行動し、研究活動に没頭できたのである。
黄熱病が猛威を振るう西アフリカの地へ向かうことは、英世にとって必然の道だったのかもしれない。現地の人々は彼を必要としていた。では、ガーナのアクラに着いた英世にとって必要なものは何だったのか……。それは実験用の猿である。まずは仕事にかからないことには始まらない。ラゴス本部の研究員バウアーは、少しでも英世の役に立ってもらおうと、黄熱病に感染した猿数匹と熱帯縞蚊の卵を携行してきた。その時、バウアーが連れてきたのが、ラゴスの研究所で人一倍真面目に働いていた20歳のナイジェリア人だった。この青年こそがチャンバンである。
英世は、なかなか細かいところにまで気がつくチャンバンの性格を評価し、世話係を任せることにした。チャンバン自身の人生に変化が訪れた瞬間である。英世はチャンバンにこう告げた。「分からないことはウィリアムスに訊くといい」──実験動物の飼育係そして検査技師として働いていた26歳の青年アレクサンダー・ウィリアムスは、チャンバンの相談役にうってつけだと英世は見抜いていた。……人間の縁とは不思議なものである。著者の中山達郎氏はチャンバンだけでなく、ウィリアムスの息子フランクにも後に会うことになるのだ。
野口英世の研究──“予想を裏付ける良い成果”と“受け入れ難い理論と事実の矛盾”は交互に彼の前に現れた──が進む過程で、チャンバン、ウィリアムスもまた研究に携わる人間として成長していった。彼らは英世に可愛がられる一方、不注意に起因するケアレスミスに対しては怒声を上げられたこともあった。英世の研究者魂の凄まじさを表すエピソードがある。自身も黄熱病に感染した可能性があると感じた英世は助手に採血を命じた。自らの命を考える前に、自分の血こそが貴重な研究材料になると考えたからである。そんな人間・野口英世の傍らですごした年月は、チャンバン、ウィリアムスにとってかけがえのない財産になったことだろう。
現在もなお、その実績を高く評価される野口英世だが、研究を続けるに際しては追い風ばかりではなかった。次々と猿を実験に使っていく彼のやり方への反対意見も出始めた。「財団が猿の供給を止めるなら止めてもいい」──英世は向かい風にもめげることなく、最後のたたかいに挑んでいく。そして「ついに黄熱病の病原体を突き止めた!」と確信した英世だったが、別の医師にそれが枯草菌だと指摘された時の挫折感……。彼のもとには祝福の天使が現れ、また次の瞬間には忽然とその姿を消しているのだった。「結局我々は何もわかってないんだね……しかし、なんでまた……私にはわからない」──野口英世、最後の言葉である。研究対象だった黄熱病に自ら侵された英世が志半ばで亡くなる瞬間、助手のチャンバンはそっと彼の手を握りしめていた。
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