『こころ』のレッテル 〜名作とは何かを考え直そう!〜
 みなさんは“名作”といえば、まず何を思い浮かべますか。もちろん人それぞれに思い入れのある本は異なると思いますが、夏目漱石の『こころ』が浮かんだ人も多いのではないでしょうか。教科書でよく取り上げられるのも、一つの要因かもしれません。実際に読んでみて「心に残った」と言う人もいれば、「とにかく有名な作品だから名作に違いない」と思い込んでいる人もいたりします。どちらにしても多くの人々が、きっと一度は触れたことのある『こころ』──その評価に対して、斬新な意見を投げかける人物がいます。「『こころ』の読めない部分」の著者・志村太郎氏です。『こころ』=“名作”というレッテルに疑念を抱いた志村氏は、世間一般の評価を鵜呑みにせず、「果たして読者は作品内容をどこまで正確に理解できているのか」という視点で『こころ』の文章を一つひとつ読み解いていきます。その研究対象は『こころ』だけに止まらず、『吾輩は猫である』『坊っちゃん』など夏目漱石が遺した作品全般に及びます。漱石論に一石を投じる本著を通して、名作とは何かをもう一度考えてみませんか?

gate-02/エッセイ 「『こころ』の読めない部分」 志村太郎・著

 「私には『こころ』が読めない」──志村太郎氏はそう断言する。何とも大胆な宣言である。もし『こころ』が世間の評判に違わぬ名作であるならば、著者は「私には読解力がない」と進んで告白していることになる。しかし冒頭の言葉が、そのような意図を含んだものでないのは明らかだ。著者はこの作品と出合って以来、「『こころ』は本当に名作なのか?」という疑念を胸に抱いてきた。それは通読しても確かな読後感が得られないことに起因する。名作ならば、もっとストレートに心の中に入ってきてもいいはずだ、という思いに苛まれるうちに、いつしか『こころ』の読めない部分を突き詰めることが著者のテーマになっていった。
 漱石の文章は、どれを取っても難解であり、不可解であると著者は述べている。単語の用い方、文節の繋がり、エピソード間の連絡が明瞭でないことが多い──それが「ある一つの、まとまった物語を読んだ」という実感を得られない理由であると考察している。また「夏目漱石の神秘主義的な美意識は、恋愛だけでなく、一般の人間関係にも及ぶ。その肥大した美意識は、泉鏡花の作品に見られるように、前面に押し出されているのではない。それは隠されている。しかし、無視できない。どのように受け止めればいいのだろう」と著者は困惑している。この見えない部分に隠された“美意識”こそが漱石の作品の特徴であると同時に、作品の理解を難しくさせる一因にもなっていることが浮かび上がってくる。
 著者はさらに多角的な視点で、漱石の作品を解剖していく。『吾輩は猫である』や『坊っちゃん』の語り口に目を向け、「語り手はどのような聞き手を想定しているか、語り手と聞き手の関係を作者はどのように設定しているか」と思考を巡らせるのだ。そして「夏目作品は奇妙な語り手によって語られる」という結論を導き出している。「自分の語りに迎合する聞き手があるかのように振舞い、それは物語の不具合を隠蔽する語り手である」と大胆な持論を展開していく。
 では『こころ』にもそのような特徴は表れているのだろうか。著者は次の点に注目している。漱石はなぜ「私」に告白する「先生」を描かず、「遺書」を記す「先生」を描いたのか──。その疑問について著者は「漱石が《書き言葉の国》の住人だから」と答えを見出している。声と声の闘争を作者は恐れている、というのだ。「その変形である“往復書簡”なども恐れている。だから《私》の返信さえ不能な設定になっている」──この辺りの著者の論説には、なかなかの説得力がある。
 繰り返そう、著者は最初にこう言った。「私には『こころ』が読めない」と──。しかし、これは『こころ』という作品を否定する言葉ではない気がしてならない。「『こころ』が読めない」と告白することは、即ち『こころ』を認め、肯定していることに他ならないか……。秋から冬へと移行する季節の夜長に、そんな思いを巡らせてみるのも面白いだろう。



戻るBack number
Copyright(C) bungeisha co.ltd.
produced by NETWAVE Co. Ltd.